
Artwork by QOTAROO

Artwork by QOTAROO
MEMORY JOURNEY
「追憶の旅」
回想録
Sister Calling「姉妹の電話」

2019年2月16日、タイのサコンナコーン県にある、マリーおばさんの家でキャプチャー
僕の祖母、マルアム(写真右)と、祖母の妹のマリー(左)は、僕のiPhoneを使ってLINE電話をしている。僕とガールフレンドのミホは、マリーおばさんに会いに、タイ東北部(イサーン地方)にあるサコンナコーン県を訪ねた。サコンナコーンに自分で来るのは初めてだ。現在、祖母のマルアムはバンコクに住んでいる。祖母はサコンナコーンで生まれ育ったが、1959年の11月に夫(僕の祖父)と息子(僕の父)たちとともにバンコクに移ってきた。LINE電話で、祖母と娘(僕の叔母)がいずれサコンナコーンに戻りたいと話している。マリーおばさんは祖母にもう一度サコンナコーンに戻ってくるよう言った。マリーおばさんは、祖母の父と、再婚相手のベトナム人女性との間に生まれた。
祖母の父は、1932年のタイ立憲革命が起こる1年前まで、サコンナコーン警察署で所長を務めていたため、祖母は1931年6月にサコンナコーン警察署で産声をあげた。祖母はバンコクに転居する1959年までの約28年間をサコンナコーンで過ごした。祖母は故郷で暮らした子ども時代の話をするのが大好きだ。例えば、第二次世界大戦の間、町で連合軍による空爆があった際、どのように身を隠したか、それから友達と遊ぶためにどうやって授業をずる休みしたか。大日本帝国に抵抗する秘密組織と、イサーンの「自由タイ運動」のリーダーであるTiang Sirikhanthの家のなかに、たくさんの人々がいたのを目撃したことなど。
祖母はサリット・タナラットを尊敬している。彼のことを「良き独裁者」と呼ぶ。サリット・タナラットは、第17条を使い、国内の問題を“暴力的な方法”で解決した。例えば、正当な理由なしに家が焼失した家主には公開処刑などの死罪を与えた。サリットは火事が国の安全を脅かしかねないと主張した。さらにサリットは50年代と60年代の米国の反共産主義外交政策を支持し、君主制を蘇らせた。
今日でも祖母はまだ住宅火災について偏執的で、家で料理をしないようにと言う。祖母は、夫(僕の祖父)が水産省の最初の所長であり、プレーク・ピブーンソンクラーム(元首相)やサリット・タナラット(元首相・軍人)、ラマ9世(前国王)などのVIPが1940年代から1950年代にサコンナコーンを訪れた際、彼らを迎える機会を得たことを誇りに思っている。
今から80年前の1939年、祖母がまだ8歳のときに、両親は離婚し、父親は新しい配偶者とともにナコーンパノム県へ引越した。そこで異母姉妹である妹マリーが生まれた。祖母が小学2年生のとき、初めて国営ラジオや町の人々から、タイの新しい正式名称が「サイアム」ではなく、「プラテット・タイ」または「タイ」になったと聞かされた。1939年の6月24日のことだった。国営ラジオが初めて公共の場でタイの国歌を流したとき、人々は動くのをやめ、国への敬礼の意を込めてその場に立ち続けた。プレーク・ピブーンソンクラームは、ナチスやファスト体制を支持していた大日本帝国や第二次世界大戦の枢軸国に加わった。
祖母は母とサコンナコーンで暮らしていたが、時折ナコンパノムの父親のもとを訪ねた。妹マリーともときどきは会うことができた。祖母は、副業としてナコンパノム警察署の前でタイのデザートを売っている時に、たくさんの車がメコン川の反対側へ押し寄せるのを見たとも言った。ちょうどそのとき、フランス帝国がベトナム人をラオスのターケークへと追いやろうとしていた。祖母は、母は情緒不安定で父は優しい人だったと言った。マリーおばさんは結婚し、夫のいるサコンナコーンへ移り住んだ。
Best Friend「親友」

2017年10月8日、ラチャブリー県のファチ川野生生物保護区にあるPivor川入り口にて撮影
ご飯を盛るスリ(写真左)と地図を見るカオ(右)。彼らは、ラチャブリー県のファチ川野生生物保護区の林務担当者で、森の中で僕らの世話をしてくれた。スリはAirngaraユニット、カオはNongtadangユニットに属している。プロジェクトで使うビデオと音を記録するために、僕とビデオグラファーの友人は「Pivor」という名前の小川の入り口でキャンプをしていた。僕は、タイのファチ川が、タイとミャンマーの国境に隣接するこの野生生物保護区内の川を通じ、ミャンマーのイラワジ川と繋がると予想していた。サイアム(タイの旧称)とイギリス統治下のビルマが1868年に国境線を引く前は、人々はこの地域を自由に行き来することができた。
スリとカオは、ときどきカレン語で会話することがあった。2人は、タイとミャンマーの国境付近(山岳地帯)に暮らすカレン族にルーツを持っている。湿気のせいでなかなか火がつかず、風を起こしたり、火花を作るまでに苦労した。だから僕らは食事の前に一度落ち着く必要があった。その夜、僕たちは夕飯を食べながら、2人の生活について話をした。スリは40度のタイ米焼酎を持ってきて、一口飲んでリラックスし、酒を飲むことは森の守護神への敬意だと信じていた。雑談中、カオは遠くの方で雷が鳴ったのを聞いた。風向から雷の音を比較し、「この辺は激しい雨にならず、都市の方で降るから心配することはない、明日には川を渡ろう」と言った。
スリとカオはまた、野生生物保護区における不正について、彼らの意見を教えてくれた。カオはほとんど野生生物保護区で働くのを辞めたが、シリは引き留め、良き友人として残ってほしいと言った。カオは何年間か必死で働いた後、所長が彼と彼の両親に対して放った言葉に失望した。そのうえ低賃金だったが、経済的な機会もないため、それに耐えて働いていた。カオは頭がよく、電子機器についての知識がある、とスリは言った。スリはカオのことを、野生生物保護区で働く親友のひとりとして、本当に尊敬していた。それから彼らは、Suanpuengユニットの林務担当者で、兄弟のように尊敬し信頼している友人の「スア」についても話した。彼らは、もし何か不正があったとしたら、それがたとえ野生生物保護区のトップであっても立ち向かうだろうと言った。それからスリは、彼がこのユニットで唯一のカレン族であることから、ユニット内の誰かからときどき監視されていることがあるとも教えてくれた。彼はまた、森でのパトロール中にも関わらず時折失礼なことを言う所長にも失望していた。
雨がまだ降り続いていて、全員が寝ている間、カオはキャンプ場から渡ってきたファチ川の水位をチェックし、次の日にはまだ横断できることを確認した。カオは川に突き刺した木の枝で水位を確認していた。もし水位が上昇すれば、その夜のうちには渡らなくてはならず、夜に渡れない場合、次の日の横断が困難になるため、水位が下がるまで1日以上待つ必要があった。
早朝に目覚めた後、僕らは音と動画の撮影に出かけた。カオは、なぜ川の名前が「Pivor」になったのか教えてくれた。この周辺には、ビルマ政府から避難してきたいくつかの山地民、特にカレン族が住んでいたらしい。タイ政府が山地民の身元を確認するために、軍を使ってより低い土地に彼らを転居をさせる80年代までは、カレン族もこの辺りに住んでいたという。山地民の彼らは「E-vorg」と呼ばれる彼らの農場で米を栽培していた。軍の士官はおそらくこの場所の名前を「Pivor-pard」と聞き間違え、それからこの小川が「Pivor」になったといわれている。やがて僕らはファチ川に着いた。幸い水位は下がっていて、簡単に横断することができた。
For Sale「販売中」

このスクリーンショットは、新型車がもうすぐ発売されることを表している。僕は普段、タイ・バンコクにあるコマーシャルソング制作会社でサウンドエンジニアとミュージックコンポーザーとして働いている。自動車メーカーを筆頭に、広告会社やブランドなど多くの企業がこのスタジオにやってくる。ここで働いて約4年になるが、タイのメインストリームのコマーシャルがどのように作られるか、それから、ハウスプロダクションチームとブランドやクライアント、僕らチームの間で起きる問題や内部の仕組みなどを知った。メディアを形作るのは、激しい議論と対照的なビジョンだ。ほとんど毎回、音楽のレファレンスがあり、エージェンシーとハウスプロダクションはブランドクライアントとともに選ばなければならない。僕のスタジオは、特に「クール」なスタイルを要求されることが多く、ときどきかっこつけすぎて面白味がないこともあった。興味があることのひとつとして、どうやってクライアントの要望に答えながら、独創的でかつ著作権問題をクリアするか、ということだ。どんな種類の音楽でもコマーシャル音楽になり得るということに気がついた。コマーシャル音楽と、非コマーシャル音楽を区別することは、その曲の意図とアティチュードを汲むことでもある。
多くの場合、映像ディレクターと僕らのチームはクライアントの要望に応えることに失敗し、僕のボスとチームはクライアントが満足するためにはどう修正すべきか話し合わなければならない。ゴールは、いかに時間をかけずに修正するかであり、ときどきある種の強制的なライブパフォーマンスを行っているようにさえ感じた。クライアントは修正済みの音を聞くために待っている。プレゼンテーション中に修正しなければならないとき、僕らはプレッシャーを感じ、ミスを避けるのは非常に難しい。
僕らのクライアントの多くは、サウンドと音楽に対しての技術的な知識を持っていない。だから僕らは作った音楽に対しての簡単な手順と意図を“翻訳して”伝えなければならない。たとえば、あるクライアントが、「ズズズ」という音をもっと小さくしたいと言うと、
僕らはその「ズズズ」の音がどのことか推測しなければならない。それに小さくするにはtopperなのかHi-Hatか。またあるクライアントは、強調したい部分が十分な「パンチ」がないと言う。僕らはどのように「パンチ」を効かせるか方法を考えなくてはならない。彼らの意味するところが、効果音を通じてのインパクトなのか、力強いパーカッションの音か、はたまたバランスとイコライゼーションによってか。僕らは、彼らの主張を注意深く聞き、解読する必要がある。ときどき、僕らの解釈がクライアントの求めるところと異なる結果を招くことがあるため、僕らは再び話し合い、修正し、チェックしなければならない。僕らはよく、「ズズズ」「プゥオーッ」「シューッ」「グヮン」「ブー」「フンー」など、抽象的な効果音を使って話す。クライアントに限ったことではなく、僕らチームの間でも声を使った音でコミュニケーションを取っていた。これが広告音楽において僕がいつも思い出すことだ。
僕らが扱うメディアの多くは、オンラインプラットフォームや街中の電子看板、電車内の電子広告、テレビコマーシャルからデパートまで、幅広いところで公開される。多くは小さなスピーカーを通じ流されるので、僕らは小さいスピーカーでシミュレーションし、ミックスしている。
美容製品の広告音楽を作る仕事もたびたびあった。それらはいつも男性女性ともに持つべき“望ましい肌の色”として、白い肌を促進する製品だった。驚くことに、これらの美容アイテムはタイのクライアントに限ったことではなかった。ミャンマーやカンボジア、ベトナム、インドネシアもタイの制作会社を通じ、このような広告を作った。それから、タイのマーケティングチームによる西洋の大手ブランドの広告もあった。製品を紹介するモデルはいつも美しく、タイと東アジアか、タイと西洋人のミックスだ。そしてスローガンには時折、「韓国女性のように美しい」「日本人女性」という言葉が入っていた。アルコール飲料の場合、タイでは2008年からアルコール飲料をメディア広告で表示することができない。だから、アルコール飲料を扱うブランドは、メディア露出以外での販売戦略を見つける必要がある。
Rest「余暇」

2019年1月4日、タイ・メーリムのBaby Come Homeにて撮影
Baby Come Homeは、チェンマイのメーリムにあるカフェレストランだ。バンコク出身で、最近メーリムにこの家を買ったダーとディアのカップルが経営している。敷地内には、グランピングスタイルの宿泊用テントもあり、彼らはAirbnbのホストでもある。
僕とミホは、バンコクでの都市生活から逃げるように、年末年始はタイ北部を旅した。メーホンソーン県のパーイとチェンマイ県のメーリムで友人と会った。メーリムを訪れたのは初めてだったが、とても素晴らしい場所だった。僕らはチェンマイの中心街でバイクを借りて、Baby Come Homeまで向かった。ダーとディアは、Mark Barrottの曲の名前にちなんでお店に名前をつけた。僕らはテントに一晩泊めさせてもらったが、すごくよかった。僕らがそこに到着すると、ダーは彼のバイクに乗って、メーリムを案内してくれた。村や山々の間に、美しい場所を見つけた。最近ここへ越してきた裕福な人々が建てた家と、もともと住んでいる地元の人々の家が対照的なことに気がついた。
ダーは、タイ王国陸軍のメーリム歩兵師団が、この辺りの美しさを気に入り、メーリム周辺の村から土地を買い取り、彼らの家やリゾートを建設していると教えてくれた。歩兵師団は、ここは地元の人々の土地ではなく彼らの土地であるため、いつでも取り上げることができると主張している。だから軍とメーリム村民は対立している。この出来事は、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督によるショートフィルムで、「霧」という意味のタイ語「モー・メーリム」、つまり『霧のメーリム』を思い出させた。僕は、第20回釜山国際映画祭で、この短編映画のためにサウンドトラックを生演奏させてもらった。彼と一緒に仕事をしているとき、この映画の背景について少し説明してくれた。彼自身もここメーリムに家を持っているため、トンガ村の住民と軍の衝突について描いていると言っていた。
僕らはナワポン・タムロンラタナリット監督の最初の長編映画に女優として出演していた、友人のサイにも会いに行った。彼女もまたメーリムに住んでいる。その夜、僕らはまず、メーリムで一番おいしい(おそらく)クリスピーポークを食べに行った。オリジナルソースに付けたクリスピーポークをもち米と一緒に食べる。あまりのおいしさに夢中で食べた。夕食の後、僕らはウィンターフェスティバルに行くために街へ向かった。会場にはたくさんの人がいた。タイ人はもちろん、山地民やミャンマー人も見かけた。多くの露店では
看板にミャンマー語が表記されていた。
サイやダーらが、「Wall of Death(死の壁)」という、巨大な樽の中で大型バイクやピックアップトラックが壁に垂直になって走るスタントショーを見るよう勧めてくれた。2人のドライバーが、スタントショーを行う前に精霊に祈るところを見た。ミホはパフォーマーや観客の安全性を信じておらず、ストレスを感じていた。ショーの後、アトラクションエリアから出発し、ダーがバンパー・カー(カートをぶつけ合うアトラクション)を楽しんでいるところを見かけた。それから買い物エリア、宝くじエリアを見てまわって、Baby Come Homeに戻った。テントの中でみんなで少し話をしてから解散し、眠りに落ちた。
Transcendence「超越」

2018年4月29日、カリフォルニア州サウサリートのジョアナの家で撮影
カリフォルニア州のサウサリートに住む友人のジョアンナ(右)とミホ(左)は、サウンド・ヒーリング・セッションの前に瞑想を行っている。ジョアンナは、「Bring Harmony Home」のオーナーで、管理人とサウンドヒーラーをしている。僕らは彼女のサウンド・テーブル・セラピー ・セッションを受けるため、サンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを北に渡りサウサリートへ向かった。彼女の小さくて美しい家は、リチャードソン・ベイの近くにあった。海にはヨットやハウスボートが浮かび、道には倉庫が置いてあった。
彼女は、ジェームスの友人だ。ジェームスはサンフランシスコ出身で、彼がベルリンに旅行に行っている間、カストロ地区にあるアパートの一室を提供してくれた。そこで僕らは、彼の妹と、かわいい犬(名前はファスト)とともに滞在した。僕らを泊めてくれたことに、本当に感謝している。僕がジェームスと出会ったのは、バンコクの音楽ヴェニュー「Jam Cafe」だ。そこで僕は音楽とDJ、会話のセットで、ライブパフォーマンスを行った。ジェームスは観客として来ていて、ショーの後に僕らは、当時僕が興味を持っていたサイケデリック研究について、カリフォルニアに拠点を置く組織「サイケデリック研究のための学際的団体」の話をした。
ジョアンナのセッションは瞑想から始まり、スピーカーとサブウーファーが接続されたベッドに移動し、そこにミホを横たわらせた。彼女はスピーカーからアンビエントを流したり、瞑想時に使用する鐘やシンギング・ボウルなどの楽器を使ったり、彼女自身の言葉を使い、ミホを深い瞑想状態へと導いた。サウンド・ヒーリング・セッションが終わってから、世間話的なこともした。彼女はメリーランドからここにやってきたと言った。それから、サンフランシスコの住宅不足についても話した。
サンフランシスコに到着したその夜、僕とミホは歩いて街を散策した。とても寒い夜で、僕らはマーケット・ストリート沿いにカストロからサンフランシスコの中心街へと歩いた。歩道沿いにはいくつものホームレスのコミュニティーが形成されているようだった。歩きながら詩のような言葉を叫んでいるホームレスを見かけた。ネイティブ・アメリカンかアフリカン・アメリカンかわからなかったけれど、ヨーロッパ系アメリカ人以外のホームレスもいた。「ほとんどが精神疾患があるか、麻薬中毒者だ。多くのホームレスがヘロイン中毒だよ」と、サンディエゴで乗ったUberのドライバーが教えてくれた。彼らは、そのコミュニティ内におけるルールと社会的秩序に従い、お互いを支え合っているようにも見えた。それがどのように機能しているかわからないけれど、アメリカ社会の興味深い部分だと感じた。中心部まで歩くと、ミホはこれ以上は危険だと言い、僕らはまたカストロに戻ることにした。
See You「またね」

Photo taken on 21 March 2019, Miho Home, Sano, Tochigi, Japan
ミホ(左)と彼女の母・典子(右で孫を抱えている)と家族。僕は日本に2週間滞在し、ミホの実家がある栃木で彼女の家族に会った。ミホは栃木で益子焼を学ぶために少なくとも1年間は日本に戻ることを決めた。ミホの家族はとても親切だった。ミホの母を含む何人かは、数ヶ月前にバンコクを旅したばかりだ。そのとき僕はミホと一緒に彼らを案内した。僕らはミホの実家に滞在した。今日は「彼岸」で、家族が実家に集まり、居間のこたつをかこんで、一緒にお昼を食べた。僕はこの度でミホの父親に会うことができなかった。2年前に癌でこの世を去ったからだ。ミホは、父は禅の僧侶のような人だったと言い、とても静かで、いつもミホに「自分らしくいること」「この瞬間に在ること」を言ってきかせたらしい。居間には仏壇があって、ミホの父親の写真が掛けられていた。毎日仏壇に手を合わせ、ご飯やフルーツを供える。線香とろうそく、そして「りん」を鳴らし、亡くなった先祖に敬意を示す。僕らはまた、ミホの母が運転する車に乗って、先祖のお墓があるお寺へも行った。
家族と会った後、僕とミホは週末を利用して東京へ行った。それから栃木にまた戻り、僕は1人でバンコクに戻った。成田空港へ向かうバスに乗る前、僕らはハグをし、またねと言った。お互い離れて暮らすのはこれが初めてだ。でも、例えスクリーンだけだとしても、ビデオ電話を通じて、僕らはまた会える。新しいテクノロジーに感謝すべきだろう。
この滞在中に、タイでは、2014年のクーデターで右寄りの軍事政権になって以来、初めてとなる選挙が2019年3月24日に行われた。僕は日本への滞在が決まっていたので、新未来党に期日前投票をしようとして失敗に終わった後も、選挙情報について追いかけていた。新未来党は、人権や平等について説き、タイ政治史上最も民主主義だ。この国に生まれ育ったひとりの人間として、僕は一度も良い政治や経済成長というものを経験していない。僕が見てきたのは、問題の肝心な部分を解決できず、右翼で独占的なマフィアがコントロールする政治経済システムだ。僕は、このマフィアが、彼らの権力を維持するために作った2017年の憲法を使い、選挙後さらに権力を拡大するとわかっていた。投票後も選挙結果はすぐには発表されず、ついに2019年6月5日、タイは2014年にクーデターを指揮したリーダーであるプラユット・チャンオチャを再び首相に任命した。
僕が日本にいる間も、安倍晋三による右翼ナショナリスト政権下にあるが、日本は経済先進国であり、ちゃんと機能する政治システムを持っている。地方の人々と年の人々を比べてみても、僕の国のような大きな貧富の差がなく、社会福祉制度も整っているように見えた。しかし、時代遅れの原始的な独裁政権に支配されているため、過去59年間に高度経済成長を一度も経験したことのない国が多くある。この非効率的なモデルでは多くの問題は解決できないため、僕らは最初のシステムを修正する必要がある。多くの人々が懸命に働き、少ない給料から税金を払っているが、この独裁政権下では、ナショナリストエリートが享受する経済的豊さ(実際には税金から生まれる)と生活を共有することができない。独裁政権は国民の意見に耳を貸すことはしない。経済的に生き残るための選択肢が少なく、一部の貧しい人々にとっては選択の余地すらなく、自殺や犯罪を余儀なくされる。しかしながら、僕はまだこの不平等な世界に希望を持っている。この宇宙の小さな一員として、人々や全ての不平等を改善しようと務めている。僕にとって、それを行う最も簡単な方法は、人間や全ての物事が平等であると、今ここで認識し始めることです。多くの可能性がこの宇宙にはある。僕は人々が高いまたは低い、上か下で判断しないようにしている。もっと理解するように心掛けている。
Available On
Credits
和訳:Miho Oashi
Artwork by QOTAROO
"Sister Calling"
Vocal by Pimporn Metchanun
Conga by Yaniga Lertpimonchai
"Rest"
Vocal by Thanart Rasanon
Vocal Accompaniment by Pimporn Metchanun
Acoustic Guitar by Suphakorn Buayangtoom
"Transcendence"
Intro Voice by Joanna Sullivan
"See You"
Vocals by Yellow Fang
Recorded, Mixed and Mastered at Soundsuite Studio, Bangkok & DBS Studio, Bangkok
Text Edited by Tommy Hanson (Sister Calling, Best Friend, For Sale)
Text Edited by Dhyan Ho (Rest, Transcendence, See You)
Release Dates : June 24, 2019